井上かなえ(かな姐)さんの連載コラム 【添乗員のアルバイトをしていたころの話】(その3)
【添乗員のアルバイトをしていたころの話】(その3)
※前回までの話しは、【添乗員のアルバイトをしていたころの話】(その1、その2をご覧下さい)
これは現実なのだろうか?
煙のように消えていなくなってしまいたい気持ちを必死に抑えながらバスに戻り、運転手さんとガイドさんに無言のまま首を横に振る。
45人のお客さまに、一体何と言えばいいのか……。
きっと何日も前から楽しみにしていらっしゃった京都への小旅行。
京都御所を見るために、今日のために日程を調整し、早起きをし、留守を家族に頼み、体調を整え、そして来てくださった大切な今日という一日を、私はすべて無駄にさせてしまったのだ。
広島の田舎から京都までバスで何時間もかけてやってきて、お昼ごはんを食べただけでこれからまた何時間もバスに揺られて帰らねばならないのだ。
バスガイドさんに「とりあえず、まず会社に電話してきた方がいいんじゃない?」と言われ
そうだ……、電話しなければいけない……と気が付いた。
お客さまをバスの中に残したまま、公衆電話を探して走った。
真っ青になったまま震える手でやっとの思いで会社へ電話をかけると、先ほどの社員さんはもう、私からの電話を今か今かと待っていてくれた。
そして、すでに私のための謝罪原稿も用意してくださっていた。
「井上さん!しっかりして!今から言う言葉を一言一句すべてメモして!」
「はい……」
消え入りそうな声でかろうじて返事をし、社員さんに言われたとおりにすべてのセリフをノートにメモする。
まずは大変申し訳ありませんでしたと謝り、今回のツアー料金は全額返金させていただきます、それから○月○日に今日の代わりのツアーをご用意させていただきます、もちろん無料でご参加いただけます、という内容であった。
今にも倒れそうになりながら、いやむしろ倒れたい、何かのドラマのように記憶を失って倒れてしまいたい、今すぐこの場所から逃げたい、場面転換したい、意識を失えば今この場所から逃げられるのではと思いながらバスへ戻る。
それまで私は人生で一度も自分で責任を負ったことが無かった。
親、兄、先輩、友人、上司、いつも誰かが私の前に立って守ってくれていたのだ。私はその陰に隠れているだけでよかった。
しかし今日、私の代わりはいなかった。
私はただの腰掛けアルバイトではなく、会社を代表する一人の人間としてお客さまに謝らねばならなかった。
心を落ち着け、マイクを手に取って言われたとおりの原稿を読み上げ、お客さまに謝った。
お客さまは静かに話を聞き、誰一人私を責めたりする人はおらず、それどころか、仕方なかったよ、渋滞していたのは添乗員さんのせいじゃないよと言ってくださったのだ。
心の中では心底がっかりしているだろうに、それを一切口に出さず、添乗員さんは頑張ってくれたと言って拍手してくれたのだった。
散々だったツアーの数日後、約束通りにお詫びとして用意された代わりのツアーにも私はもう一度同行した。
京都御所の一般公開はすでに終了していたため、京都御所へは行かない京都ツアーだったが、都合がついて参加してくださったお客さまはたったの6人だけだった。
ツアーを終えて地元の駅まで帰ってきて、お客さまにもう一度謝りながらお見送りをしたが、その時に一人のお客さまから手紙を手渡された。
「あなたがあの時、背中を向けたままがっくりと肩を落として何も言えずにうつむいていたのを見ていたら可哀想で涙が出てきて、バスを降りるときになにか言って慰めてあげたいのにうまく言葉も出てこなかったの。今日も言葉に詰まってしまったらいけないと思って、手紙にしてきたの」と茶目っ気たっぷりに、でも目に涙をためたまま笑うご婦人。
赤の他人でしかないこんなただの若造のために、こんなにも親身になって心を痛めてくださる方がいらっしゃるなんて。
私を元気づけるためにだけに今日は来てくださり、そして手紙を用意してきてくださったそのお客さま。
警察官に止められてしまって京都御所には入れなかった時にも、会社に電話した時にも、お客さまに謝るときにも、一粒も涙をこぼさなかった私が、この時初めて泣いた。
人は日常から離れ、特別の1日を過ごすために旅に出かける。
私にとっては日給数千円のアルバイトでしかないが、参加されるお客さまにとっての今日の1日は特別の1日でないといけない。
楽しい思い出をたくさん作っていただこう。特別な1日を過ごしていただこう。あの旅行は楽しかったねといつまでも何年たっても思い出していただけるような素晴らしい旅のお手伝いを全力でしよう。
あの世紀の大失敗は、ある意味私を本当の意味で大人にしてくれたのかもしれない。
あの日のことを思い出すのは正直辛くて、これまでずっと避けてきた。
しかしコロナ禍で、本来ならば大学の対面授業で行うはずだった「失敗から学んだこと」という3分間スピーチを、家でわたし相手にやりたいと娘から頼まれたことがきっかけとなり、久しぶりにこのエピソードを思い出したのだった。
あの時はこんな失敗を自分がまさかしてしまうなんて、この世の終わりかと思うほどに重大なミスをしたと思っていたものだが、こうして細かに思い出してみればあれも含めていい経験をしたのだと(あの時のお客さまには本当に申し訳なかったと今でも思うけど)、あの経験があったからこそ今のわたしがいるのだと、今のわたしにつながっているのだと感じる。
コラムはこれで終わりです。
これを通じて自分の娘たちになにかを学んでほしいとかは特にないが(笑)
ちなみにバイトを始めたばかりの3月に赤穂へバスツアーの研修に行った時のツアー担当の社員さんは、今年の9月で結婚26年目になった君らのパパだ。
(※夫は現在別の仕事をしています)

当時、添乗員をしていた頃の写真
井上かなえ(かな姐)さんプロフィール
料理ブロガー、料理家。兵庫県在住。
2005年にスタートした3人の子どもたちのリアルな日常と日々のごはんを綴ったブログ「母ちゃんちの晩御飯とどたばた日記」はライブドアブログで2018年に殿堂入りし、レジェンドブログに。
「てんきち母ちゃんの15分!スープひとつで満足ごはん」(講談社)など著書多数。
東京、神戸での料理教室開催、雑誌、TV、食品メーカーのレシピ考案などでも活躍中。
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